そこで、まずエリクソンなのだが、彼はフロイトの「自我」概念から出発して、自我同一性と自己同一性を区別した。そして更に自己同一性を、「個人的同一性(わたしとは何者であるかをめぐるわたし自身の観念)」と「社会的同一性(わたしとは誰であるかを社会や他者が考えているであろうわたしについての観念)」に分けて、このふたつの相互依存的二項の関係から自己同一性が成立するとした。
個人的・社会的同一性が一致した状態が「アイデンティティ」の安定した状態で、これにズレがあるときにはアイデンティティの危機である。
ところで大人でもなく子供でもない期間に心理的危機がくる。この試行錯誤の期間を「モラトリアム」とエリクソンは呼んだ。心理的危機とは個人的・社会的同一性のズレで、これが一致すると統合され安定に至る。
このエリクソンの同一化概念を人格の発達だとする概念、つまり「アイデンティティ」の発達を通して得られる高次のアイデンティティ統合というものは到達すべき良きものだという「規範性」ゆえに、上野氏はこれに「統合仮説」と名づける。
さて、ここから先のバトラーを除く系譜の人々の「アイデンティティ」概念は、それぞれ違っているし、上野氏が評価する部分もあるのだが、大切なことだけを端的に書くと、これらの人達の概念に共通するのは、上野氏の言う「統合仮説」である。
つまり、「アイデンティティ」の統合(上野氏のいう「統合仮説」)は、父のようになる、母のようになる人間たちが正常とされ、異性愛が正常とされ、そうでない者たちが差別化されることになるのだと、上野氏は考えているわけである。
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ところで石川准という社会学者は、アイデンティティを「同一性」ではなく、「存在証明」と翻訳したそうだが、「誰が存在証明を強迫的に求められるのか?」という問いが重要だと上野氏は述べ(要約して解説すれば)次のようになる。
「誰がアイデンティティを必要とするのか?」・・・例えばIDカードは支配権力が「お前は誰?」という問いに答えるものであると上野氏は述べる。この存在証明を支配権力から行われるのは、少数者である。しかし少数者とは、社会資源不均衡配分を含む権力関係の用語だから、誰かが対象をマイノリティーにしなければ、マイノリティは存在しない。つまり、少数者とは、少数者化という言説実践の効果としてしか存在しないのだから、呼びかけによる同一化の過程で実践されているのは、「他者化」という権力行為の遂行ということになる。
と、こういう論法になるわけだ。
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さて、人格は統合されねばならないという「統合仮説」、つまり社会に存在している「規範性」については、上野氏は概略、下記のように述べている。
スチュアート・ホールは「アイデンティティの概念は、・・・決して統一されたものではなく、最近においては次第に断片化され、分割されている・・・。アイデンティティは決して単数ではなく、様々で、しばしば交差していて、対立する言説・実践・位置を横断して多様に構成される。アイデンティティは・・・たえず変化・変形のプロセスのなかにある」と述べているが・・・
この「アイデンティティ」概念は、エリクソンの想定した統合をめざす安定的な「アイデンティティ」とは大きな距離があり、エリクソンの概念から言うと、ホールのいう統合を欠いた「アイデンティティ」は「逸脱化」「病理化」されるほかない。
しかし、多くの人々は、アイデンティティの統合を欠いても逸脱的な存在になることなく生活しているし、社会集団が包括的帰属から部分帰属へ変化するにつれ、断片化されたアイデンティティの間を、一貫性を欠いたまま横断的に暮らすことも可能になっている。この複数のアイデンティティの間に隔離、非関連が成立した状態を、多重人格とか解離性人格障害と呼ぶが、それは病理以前にポストモダン的な個人の通常のあり方ではないだろうか。
そして、最後に上野氏はこう述べる。
アイデンティティ理論の革新は、アイデンティティ強迫や統合仮説と対抗してきたが、それらの努力は、「宿命」として強いられた同一性から逃れたい、逃れる必要があると考える者によってこそ担われた、と。理論もまた、社会的な闘争の場なのである
上野氏が一貫して問題にしているのは、これまで考えられてきた「アイデンティティ」概念というのは、秩序(性秩序も含め)を要求し、人間に社会への同化を求め、そこから逸脱する者を抑圧するという概念になっているということである。
ではどうやって、上野氏はその秩序から逃れることが出来ると言っているのだろうか?
ここで、ポスト構築主義のジュディス・バトラーが登場する。
バトラーは「エイジェンシー」という概念を用いる。要約すれば、「言説行為の前に『主体』はなく、言説行為を通じて『主体』が事後的に構築される」として、「アイデンティティ」とは、こういう言説行為の反復という過程を通じて事後的に構築された沈殿物(マルクスにとって「商品」が人間労働の「沈殿物」であるように)であり、行為に先立って「主体」と呼ぶのは相応しくないので、バトラーはこれに「エイジェンシー」と名づけた。「主体」が語るのではなく、言語が「主体」を通じて語る媒体が「エイジェンシー」である。
要約して述べてみよう。
バトラーは、エイジェンシーの概念を、アルチュセール(マルクス主義の構造主義)の「呼びかけ」、オースチンの「言語行為論」、フーコーの「言説実践」から説明するが、アルチュセールは、権力的構造の中の主体の位置を理論化するために「呼びかけ」概念を用いて、たとえば警官に「おいお前」と呼びかけられた時に、その呼びかけの主体位置に同一化したときに、人は主体となる(他者になる)と上野氏は説明している。
そして「エイジェンシー」とは、このような言説実践の生起する場であり、一回性のものだという。一回性というのは他者化しない、秩序に属さないということだ。
でも、何故一回性が可能なのか?
「同一化」は言説実践に先立って存在しないので、言葉による構造の再生産の代わりに、バトラーは「引用」というレトリックをもって来る。言説実践の生起する場であるエイジェンシーは、他者の言葉を借りながら、自ら引用の場となる。引用は単なる反復ではないから、一回性の行為となり、その言説実践では「引用」はその都度「異本」を生産する、ということになる。
駆け足で概略を述べたのでご理解頂けたかどうか心もとないが、私の疑問や反論を述べたい。
バトラーの「エージェンシー」概念と「引用」レトリックは、私には全くの空論というか、バカげた理論にしか思えない。
しかし、もし仮にバトラーの「エージェンシー」や「引用」に共感して、多くの人がこれを実践したと考えてみよう。そこで、どんなことが起きるだろうか?
そこには、無限の差異が生まれることになるのではないだろうか?
上野氏は「再生産」は「差異生産」だと述べて批判しているが、バトラーの理論によって実践され生み出されるであろう差異は、無秩序の中の差異であるが故に、上野氏にとっては許されるべき差異だというのだろうか?
それは、とても欺瞞的な概念でしかない。
何よりもそれは、子孫の「再生産」をも拒否する人類滅亡のための呪詛の理論ではないか。
こんな人類滅亡のための学問が、果たして学問と呼べるのだろうか?
又、上野氏は自らが名づけた「統合仮説」に関して、「多重人格とか解離性人格障害と呼ぶが、それは病理以前にポストモダン的な個人の通常のあり方ではないだろうか」と述べている。
確かに近代社会以前の人間社会では、身近な大人〜父や母〜のように成長することが、人が大人になる殆ど唯一の方法であったのに比べて、現代社会は益々複雑さを増して、社会の中で人間は多様な役割を持ちながら生きている。だけれども、それは「多重人格」や「解離性人格障害」とは別物で、治療すべき病ではない。大部分の人は、多面的な役割を自らの中で統合しながら生きている。
ただ、そうした多面的な顔を持つことで受けるストレスを癒す場所が、「家庭」や「家族」なのではないだろうか。いや、人間は「家族」を作った時代から、社会での顔と家庭での無防備なあり方との良い意味でのギャップを以てバランスを取ってきたのではないだろうか。それは今も昔も変らないような気がする。
そうであれば、家庭や家族関係が安らぎにならない状況が生まれてきていることが、むしろ現代の大きな問題ではないか?!
「多重人格」の原因のひとつは子供の頃の虐待にあると言われているが、家庭や家族関係に充たされないことが大きな問題ではないのか?
だから私は、こう言いたい。
父性や母性を否定し、人間を父でもなく母でもなく誰でもない存在にしてしまおうというような上野氏らのイデオロギーこそが問題なのだ、と。
文化の真髄であり祖先が使い伝えて来た言葉を使うことを「引用」だと言い、祖先の生き方を踏襲すること(再生産すること)を拒否して、子孫を残さない、子孫の未来を考えない、それは上野氏ら個人が行なうことであれば、それはそれで仕方のないことだ。勝手にどうぞというほかない。
だが、それを学問だと称して、若い人々を洗脳することは、害毒を通り越して犯罪ですらある。
それは、太古から未来へ続く人類の歴史への、そして人類への犯罪なのだ。